さらざんまい(感想文②)

   ※以下の記事は、私が4月から始まったアニメ「さらざんまい」にどハマりした感想文です。ツイッターに書いてたのですが、長すぎてちょっとどうかと思ったのでまとめ直して少し追記しました。(なお、作品名としてのさらざんまいには「」をつけ、技名としてのさらざんまいには“ ”をつけています)また、引用部は斜体にしています。

 

2章 他作品からの影響
  1章で論じた様に、「さらざんまい」は見たくないものを抱えて生きていかなければならない、というメッセージを孕んでいる。この主題に影響を与えたとされる作品を挙げ、その影響について論じる。


1.2つの星の王子様
    最終話で春河がケッピを「星の王子さま」と呼んでいる。通常、星の王子さまと聞いて想起するのはサン=テグジュペリの作品であるが、春河の前に現れた「星の王子さま」が、希望の象徴であるケッピと、絶望を象徴する黒ケッピの2体が融合した状態である事を念頭に置くと、もう1つの作品が見えてくる。寺山修司の戯曲「星の王子様」である。(幾原監督は寺山修司から強い影響を受けている旨を公言している)ケッピと黒ケッピを融合させるのと同様に、この2つの「星の王子さま」を融合させる事が物語のある種の答えとなっていると考える。
   サン=テグジュペリ版の『星の王子様』は有名であるから、今更紹介するまでもないが、寺山の戯曲「星の王子さま」は初期作にあたる。幾原監督自身が実際に天井桟敷を観劇したのは、レミングや奴婢訓といった末期の作品であったらしいが、「星の王子さま」の内容自体は少女革命ウテナに強い影響を与えた「レミング」に通ずる部分も多い。(「レミング」は、初演から数年後に手を加えて再演されている。私が参考にしているのは『新装版 寺山修司幻想劇集』に収録された「レミングー世界の涯てまで連れてってー」であり、これは初演版に手を加え、一部再演版を挿入したものである事は予め述べておく。幾原監督は恐らく再演版を観たのだと考えるが、初演版と再演版の差異について、またどちらに影響を受けているのかについてここでは考慮せず話を進める)
 「レミング」同様、「星の王子さま」は「孤立した個の内部」を取り上げ、そうした内面への退行を拒むプロセスを描いている。「星の王子さま」という題は、当然サン=テグジュペリの『星の王子さま』が意識されており、『星の王子さま』を愛読していた過去の自分に復讐したいと思った事が製作の契機になっているという。
   復讐とは、具体的に何を指すか。戯曲に関する寺山のノートの一部を引用しよう。


「「何百万の星のどれかに咲いているたった一輪の星を眺めているだけでしあわせだ」とサン・テグジュペリ星の王子さまは言っている。だが「見えないものを見る」という哲学が、「見えるものを見ない」ことによって幸福論の緒口をつなごうとしているのだとしたら、私たちは「見てしまった」多くの歴史と、どのようにかかわらなければならないのだろうか?(略)「星の王子さま」を捨ててきた人たち、「見えるものを見てしまった」人たちが、もっとも深く現実実則と、心的な力の葛藤に悩みながら歴史を変えてゆくのである。」(p.289)


   つまり、寺山は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最も有名な台詞である「大切なことは、目に見えないからね」という台詞に縋り、大人になっても現実を見ようとしない人々へ疑問を投げかけ、現実と向き合うべきだと主張している。幾原監督は「見たくないものとも一緒に生きるべき、見続けるべきだ」とインタビューで発言していたが、これは「見えるものを見てしまった」人たちが、現実原則と、心理的葛藤に悩みながら生きる事を賞揚する寺山の姿勢と同義だろう。
   あらすじを簡潔に示すならば、恐怖の老処女ウワバミが経営するホテルに男装した母親と共に少女・点子が訪れ物語が始まる。ホテルに閉じ籠り紙屑を空に浮かぶ星だ、と主張するウワバミの現実を見ようとしない姿を点子が糾弾する。これによって、「お芝居ホテル」は崩れ落ち、点子から点子役の女優となった女が観客に向けて劇場を出た時の現実の空に浮かぶ星を見つめる事の重要性を説き幕は降りる。
   実際に作中の印象的な台詞をいくつか上げ、より深く「さらざんまい」との類似性について考察し、また異なる点についても述べる事とする。


点子:でも、この部屋には窓がないわ。それに今は昼だし
ウワバミ:昼だって星は見える、あたしは「何百万の星のどれかに咲いている、たった一輪の  星を眺めるだけで、しあわせ」なんだもの(p.294-295)


ウワバミ:(強く)見えないものを見るんだ!見えないものだけを見る!
点子:でもそうしたら見えるものが見えなくなる!
ウワバミ:いいじゃないの!そんなもの。今まで見てきたものなんか、みんな捨ててしまえばいいんだ……すると、ほら、見えないものが見えてくる!作りもの……作りもの……でも、作りものは安心よ、決してあたしを傷つけないから(p.335)


点子:いつまでも、いつまでも、大人になれない「星の王子さま!」きたないものを見ないふりをするごまかしの童話!うそでかためたお芝居ホテルのうしろに、ほんものの人生を見せて頂戴!(p.336)


点子:お芝居と同じように、人生にも上手な人、下手な人がいるのよ。(略)星はあるはずです。ほんとの星はあるはずです。たぶん、今夜も見えないかもしれないけれど、紙でも豆電球でもない星があるはずです(p.340)


   ゆめから抜け出せずに星の王子さま いまでも読む子よ 夜空を仰ごう 言葉が死ぬときめざめる世界がある お芝居は終わっても夜空はおわらない(p.342-343)

 


   ウワバミの様に、サン=テグジュペリのいう所の「見えないものを見る」が「見えるものを見ない」という態度に変質してしまい、孤立した内面への退行に向かった大人達の姿は「さらざんまい」の作中に幾度も登場する。玲央と真武に欲望搾取され、倒されるべき敵として立ち塞がるカパゾンビになってしまった人々である。或いは、本来の真武の姿を見ようとせず、「お前は本物の真武じゃない」と切り捨ててしまった玲央も同様だろう。
   この様に、「見えるものを見ない」態度を否定し、現実を見なければならない事を戯曲「星の王子さま」は教えてくれるが、一方で「見えるものを見てしまった」現実をどう受けとめ生きて行くのかという方法は示されていない。「さらざんまい」は、その解答としてサン=テグジュペリの『星の王子さま』を用意しているのではないだろうか。
  5話で一稀は「見えないものに確かさを求めるなんて無理なんだよ」と叫ぶが、これに呼応するように最終話でサラが「形あるものはいつか割れて失われる」と春河に告げている。サン=テグジュペリ版『星の王子さま』の「大切なことは、目に見えないからね」という態度そのものである。一稀、燕太、悠の3人は“さらざんまい”による強制的な秘密開示システムによって「見たくないもの」=現実と向き合わざるを得なくなる。自分のせいで壊れてしまった家族、決して振り向いてくれない同性への想い、自らの犯した罪。しかし、これらの心理的葛藤を受け止めてくれるものは、大切な目に見えないつながりなのだ。

 つまり、2つの「星の王子さま」を融合させることこそ、「見えるものを見てしまった」夕暮れの少年達の生存戦略なのではないか。実際、この2つの「星の王子さま」の融合を示唆するシーンが最終話に存在する。世界の円が丸く保たれた後、春河が現実の夜空を見上げるシーンである。夜空に浮かぶ本物の星々の合間を恐らくは現実のものではないケッピとサラらしき流れ星と、後を追う様に玲央と真武らしき光が流れ「ア」の星座を作る。本物の夜空に浮かぶ、架空の星座。2つの星の王子さまの融合を視覚的に示す美しいカットである。


2.スタンドバイミー
   幾原監督は主人公3人組のイメージソースとして映画「スタンドバイミー」をあげている。意識共有のためにスタッフ内で鑑賞会を行なったと述べていた程であるから本作を「スタンドバイミー」を抜きにして語ることは不可能だろう。この映画の影響を「さらざんまい」の中に見出す事で、夜の意味を捉え、オープニングとエンディング映像の変化について紐解いてみたい。


   「スタンドバイミー」は、男の子4人(ゴーディ、クリス、テディ、バーン)が、「郊外で子供が電車に跳ねられたらしいが、警察は死体を未だ捜索中で見つけられていない」というニュースを聞きつけ、もし発見する事ができればテレビに出られるのではないか、英雄になれるのではないか、という子供らしい功名心から親に各々嘘をつき冒険へ出る青春映画である。田舎町から、赤い鉄橋を渡り、車を使えば然程の時間も掛からない約30キロ先の森の奥へ向けて線路伝いに歩き旅をする。4人組とはいえ物語の骨子となるのは、不良のクリスと、文学少年ゴーディ2人の友情である。
  旅のリーダーはクリスだ。汽車の前に立ち度胸試しをしようとするテディを無理やり線路から引き剥がして助け、或いはゴーディに「君は頭が良い。俺たちとは縁を切って進学コースに進むべきだ。君の文才を親が守らないのなら、俺が守ってやる」と助言する等、彼の非常に誠実かつ聡明で正義感の溢れる性格が道中明らかになっていく。
   やがて日が暮れ、森の中で一夜を明かす事になった4人は、クリスが父の引き出しからくすねてきた拳銃を携帯し交代で見張りに立つ。真夜中、クリスが見張り番をしていると、ゴーディが魘されているのに気がつき、焚き火の世話をしながらその姿を見守ってやる。目を覚ましたゴーディは見張りに戻ろうとしたクリスの隣に座り込み、「悲しいよ クリス、1人で死ぬなんて」と零す。それは、自分たちがこれから見つけ出すはずの死体となった子供に向けてもいるが、何より亡くなった自身の兄に重ね合わせた言葉であった。
   ゴーディは、家庭内で唯一自分の文学的才能を認め、愛してくれていた兄を事故で亡くしている。優秀だった兄は父の誇りだった。それ故、兄の死後、父親からキツくあたられており、家庭内に居場所を見つけられず苦しんでいた。
   この秘密をゴーディが打ち明ける代わりに、クリスもある秘密をゴーディに打ち明ける。彼自身は頭は悪くないものの、家庭環境が悪く、また給食費を盗んだ罰で停学になった事から進学コースに進むのを諦めている。確かに一度給食費を盗んだと彼は告白する。しかしその後、返却していた。にも拘らず、金は出てこない。代わりに教師が新しいスカートを履いている。つまり返した金を教師が横領した、大人に利用されてしまった、というのが真相だった。だが、例え自分が真実を話しても誰も信じはしないだろう。何故なら、兄が町の不良グループの一員で家が貧乏だからだ。「(もう全て諦めている)ただ、誰も自分を知らないところへ行きたい」と旅をここまで率いてきたクリスが涙を零す。ゴーディは静かに寄り添い、肩を抱き寄せ、夜はふけていく。
   その後、旅を続け死体を発見するに至るが、子供の遺体を見たゴーディは再び兄の死を想起し取り乱してしまう。
「何故兄さんは死んだんだ……僕が死ねばよかった、父さんは僕を嫌ってる」
「(父親は)君の事を知らないだけだ」
    2人が寄り添い合っていると、死体の噂を聞きつけ、車で追いかけて来た不良グループが現れる。リーダーのエースとクリスの兄アイボールが「自分たちが一番に発見した、その死体を寄越さないと殺す」とナイフを見せてクリスを脅す。しかし、刺される覚悟で彼は一歩も引こうとしない。緊迫した状況下、ゴーディが立ち上がり、空に向かって銃を放ち「誰にも渡さない」とエースに銃口を向け狙いを定める。
   気圧された不良達が立ち去り、漸く彼等は旅の目的であった死体の発見者になる資格を勝ち取った。しかし、「英雄になるんだろ?」というテディの言葉に「こんなことでは(英雄になっちゃ)だめだ」とゴーディは返し、結局匿名で警察に届出をして帰途に着く。旅を経て戻ってきた街は出発前より小さく見えた。2人きりになったクリスはゴーディに問いかける。「一生この街にいるのかな」「なんだってできるさ」「そうだな、握手を」握手をし、2人はそれぞれの家に戻る。
 (その後、テディやバーンとはあまり遊ばなくなってしまったが)クリスとゴーディは共に進学コースへ進み、ゴーディは作家に、クリスは努力して弁護士になった。幼き日の冒険が2人に生きる力を与え、将来を決定づけたのは言うまでもない。しかし、大人になったクリスは持ち前の正義感によって喧嘩の仲裁に入り皮肉にもナイフで刺され亡くなった。その一報を知ったゴーディが、かつて旅の途中「書く事に困ったら俺たちを書けよ」と励ましてくれたクリスの言葉を思い出し一連の冒険譚を執筆していた、というのが映画のあらましである。そして、庭ではしゃぐ子供の声を聞きながら「12歳の頃の様な友人をその後持たなかった、誰でもそうではないだろうか?」とパソコンに文字を打つ大人になったゴーディの姿で幕はおり、名曲「スタンドバイミー」が流れる。映画の20年以上前に発表されたベン・E・キングによる妻に宛てたラブソングは青春映画のエンディングとして流れると全く違った意味を持つ。「夜がやってきて大地が暗くなるとき 月明かりしか見えなくなる 怖くはない、怖くはないさ ただ君がそばに、君がそばにいてくれたなら」という歌詞は、クリスとゴーディが幼き日、旅の夜に結んだ特別な友情を想起させ、観客の胸をうつのである。


    以上が、スタンドバイミーのあらましだが互いの秘密を打ち明けることで深い友情で結ばれ、夜を越える。そしてその友情と経験が未来を切り拓く力になる、という「さらざんまい」の構成自体が強く本作と結びついているのは言うまでもない。更に映画のシンボルでもある4人が冒険へ出発する際に渡る鉄橋は赤く塗られている。浅草の数ある橋の中から吾妻橋を選択したのは勿論浅草の大通りと対岸を結ぶ街の大動脈を果たしているのが最たる理由であろうが、この映画の冒険の一歩である鉄橋を模している様にも見える。
    最終話「あの頃、ここじゃないどこかへ行きたかった」という3人の共通した独白は、クリスがゴーディに泣きながら漏らした台詞を下敷きにしたものだろう。3人で手を取り合って攻撃するのも、恐らくは旅の終わりに2人が握手をし、友情を確認しあったことと無縁ではない筈だ。また、何より銃を持つ悠が、クリスに似て実は1番冷静で情深い性質を持っており、彼が更生し、人生を生き直す勇気を持ち得るという結末、男の子の友情が、連帯が、その子の将来を救うきっかけになるという救いの物語をthe peggiesの「スタンドバイミー」にのせて描写した場面こそ映画への最大のリスペクトだと言える。
     the peggiesの「スタンドバイミー」が使用された通常のエンディングは、夜の浅草に3人がそれぞれ1人で立ち、最後、夜が明けミサンガを持った一稀の手がクローズアップされた後、朝日によって浮かび上がる人影がアスファルトに伸びる作りになっている。この影の数は変動し7話までは3人だが、8〜9話ーーつまり悠が誓と浅草から離れると2人に、そして10話で燕太が撃たれ生死不明の状態で流れた時は1人になる。
  更に最終回においては、オープニングとエンディングそれぞれ曲がかかる位置と映像が変わる。まず、森中少年刑務所に入った悠の生活がthe peggiesの「スタンドバイミー」にのせて描かれるが、この時、曲の終わりに映るのは夕陽を受けて刑務所内の廊下に伸びる悠1人きりの影である。出所し、街へ戻って3人が再会した後、オープニングに使われていたKANABOONの「まっさら」が流れる。そして、最後3人が1章で見た様に未来(下流)へ向かって走るシーンは夕陽をバックにしたものから青空に背景が変わり、ケッピの尻から虹が出るシーンは朝日を浴びて立つ3人の影に挿し変わっている。
    このエンディング映像の人影の数の変化と最終回に於けるオープニング、エンディング曲それぞれの変更点をどの様に捉えるべきか。
     まず、「さらざんまい」に於ける夜は映画「スタンドバイミー」同様1人で乗り越えるには恐ろしいものである。1話でケッピが尻子玉を抜かれた一稀と悠に向け、夜の浅草を「ここは欲望フィールド、人の世の裏側」と説明し、人間にはカッパの姿は見えない、あなた達は生きていて死んでいる状態にあると説明する。また「夜になるとカパゾンビが出る」という設定も存在する。要するに、夜は(目には見えないけれども)死と絶望によって支配され、欲望を御しきれず現実実測から逸れカパゾンビにされた者達が執着していた欲望を満たそうとする時間帯なのである。そして幾原監督が「3人がカパゾンビに対して言ったことがそのまま自分たちに返ってくる」と述べていたが、一稀や燕太、悠の持つ欲望は、カパゾンビにされてしまった人たちとそう大きく変わるものではない。特に中盤までの一稀の行き過ぎた行動は、もはや明日カパゾンビにされていてもおかしくない様相を呈している。実際、一稀は1話の夢の中では夜の街を走っている。つまり、彼等は限りなく死や絶望が支配する夜に近しい、夕暮れ時の少年なのだ。
   だが物語がはじまり、ケッピと出会い3人で過ごす内、夜は別の意味を持ち始める。彼等は夜になるとカッパに変身してカパゾンビと戦い“さらざんまい”によって身も心も同化する。この強制的なシステムによって、各々の秘密や欲望を共有し、ある時はその行動を諌め、或いは理解を示し絆が深まっていく。最終話、世界の円が丸く保たれた時、夜は明け、朝日に包まれた現実世界の吾妻橋に3人が倒れている姿が映る。夕暮れの少年達が夜を越えた姿を示す様に水溜りに朝日が反射する。ここから現実に、明日へ向かっていく希望が窺える象徴的な場面である。
     最終回以前のエンディング映像は各々が孤独に夜の街に立っていた。物語が始まるまでの状態から、ミサンガというつながりによって集い、つながる様子を描いていたのではないだろうか。最終回では、夕暮れに悠の影が映り、またやって来る夜に彼が1人で耐えなければならない現実を暗示している。しかし、映画「スタンドバイミー」のエンディングの様に「夜がやってきて大地が暗くなるとき 月明かりしか見えなくなる 怖くはない、怖くはないさ ただ君がそばに、君がそばにいてくれたなら」、と目には見えなくとも作中で培った繋がりを手離さず彼は夜を越え、出所の日を迎えたのだろう。そして、親友と再会した彼等3人の心情の変化を示すために、「まっさら」のラスト3人が駆けていく背景は夕暮れから青空に挿し変わったのではないか。彼等は、絶望を、夜を越え、朝日を3人で浴び未来へ向かっていくのだ、という確かな生のメッセージが此処にも込められている。
    余談ではあるが、1995年、TBSで放映された野島伸司脚本の「未成年」というドラマがある。この作品も映画「スタンドバイミー」に強い影響を受けている。(エンディング映像は男5人で線路を歩く、映画を踏襲したものになっている)このドラマの中で、男同士の友情の証として尻を出すというシーンが割に頻出する。果ては、最終回、男仲間5人で裁判を受ける展開になり(腹一杯に食ったら、一緒に少し走ろうぜ 寄り道したってかまわないだろ)という主人公・ヒロのモノローグの後、「それでは、皆さんの久々の再会を祝って、せーの!かんぱーい!」と全員が尻を出して物語が終わる。「未成年」は本質的には、能力で人を判断する社会に対し「自分たちは車やテレビじゃない」と反抗する若者の話だが、モチーフとして70年代の学生運動を織り交ぜており、野島は、幾原監督とほぼ同年代である。可能性に過ぎないが尻を出すというある種突飛な発想はこのドラマから来ているのかもしれない。


3.まとめ
   S.フロイトは幻覚的な方法で、快を得ようとするが、これは失敗に終わり、快感原則を現実にそぐわせる為に現実実測が二次的に発生すると考えた。しかし、快感原則は現実実測の発生によって消滅するのではなく無意識に於いては快感原則が支配していると定義している。人は心の奥底では、欲望に突き動かされながらも、或いは絶望し死への欲動に走ろうとも現実を見、生きなければならない。その調整機能として他人と手を取り合う事が如何に重要か、そして手を取り合うにはどうすれば良いかの答えが本作には用意されていた。
   さらざんまいは寺山修司の戯曲「星の王子さま」と映画「スタンドバイミー」に恐らく幾許かのインスピレーションを受けているだろう。しかし、当然ながら作品そのものをただ踏襲しているのではない。寺山の戯曲は問題提起をするだけで「見てしまった」多くの歴史との関わり方まで書かれてはいないからだ。サン=テグジュペリの「星の王子さま」と寺山の「星の王子さま」を融合させ、現実を生きる為にこそ見えない繋がりを重視するのは幾原監督自身が出した寺山戯曲に対する解答でもある。そしてその答えを実践的なものに落とし込む、つながりをどう生み出すのかのヒントとして映画「スタンドバイミー」が用いられたと考えられる。
 

(参考文献:ジークムント・フロイト 1996年『自我論集』筑摩書房寺山修司 1976年『毛皮のマリー角川書店寺山修司  2017年『平凡社ライブラリー856 新装版寺山修司幻想劇集』平凡社

さらざんまい(感想文まとめ①)

   ※以下の記事は、私が4月から始まったアニメ「さらざんまい」にどハマりした感想文です。ツイッターに書いてたのですが、長すぎてちょっとどうかと思ったのでまとめ直して少し追記しました。(なお、作品名としてのさらざんまいには「」をつけ、技名としてのさらざんまいには“ ”をつけています)

 

1章 縦軸と横軸から読み取るメッセージ
   「さらざんまい」は浅草を舞台に物語が展開する、台東区と連携し観光マップが作成される程「街」とコミットした作品である。本章は、「街」のシンボルの一つでもある吾妻橋と、その下に流れる隅田川の持つ機能を考え、物語にどの様な作用をもたらしているかを思考し、何故ここまで「街」の描写に意味を持たせているのかまで検討して行きたい。


1.吾妻橋の持つ機能(縦軸)
  この物語は浅草が舞台になっているが、とりわけモチーフとして重視されるべきは隅田川に架かる吾妻橋ではないか。橋を渡るシーンは、物語の要所で挿入されている。以下、簡単にではあるが、橋周辺にどの様なモチーフがあったのか、そしてまた物語に於いて登場人物がどの様に橋を渡ったのかを確認してみる。


<位置関係>
押上方面ーーー東京スカイツリー/スーパードライホール/サッカー練習場/カズキが母と手を振り合ったバス乗り場(5話)/春河が事故にあった横断歩道(6話)
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隅田川に掛かる吾妻橋
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浅草方面ーーー雷門/カッパ河太郎太郎像/水上バス乗り場


  また、1つ注意しておきたいのは、それぞれの岸の川縁の柵の形状の差異である。押上側は波状になっており、浅草側は縦状つまり、檻のような形をしている。次に作中の3人がどの様に橋を行き来したかを纏める。


<登場人物の動き>
1話:
・夢の中で一稀は、春河の事故が起きた横断歩道を渡り、浅草方面へランニングしている。 更に、橋の終点にある猫の像を曲がって階段を降り、柵のある川縁を上流へ向かっている様子が対岸の風景から窺える。
・一稀が、自身で決めた3つのルールについて説明しながら箱を持ち浅草方面へ向け橋を渡っている。
5話:
・“さらざんまい”によって過去が漏洩し、一稀が押上方面へ母を見送りに行った際、引き止めようとした春河が横断歩道で事故に遭ってしまった事が判明する。
7話
・一稀が、過去の自身が決めたルールには縛られないと表明しながら箱の代わりにボールを持 ち、浅草方面へ向け橋を渡っている。
8話:
・悠が燕太に別離の電話をかけた際、吾妻橋の上で押上方面を見つめている。
10話: 
・真武を喪った玲央が、吾妻橋の上で一稀と燕太を撃ち殺して希望の皿を手に入れようとした所を背後   から悠が撃つ。窮地を逃れたと悠に感謝する2人だが、悠は更に背後から現れた黒ケッピに飲みこまれてしまう。つまり、この時の位置関係は、押上側に一稀、燕太、ケッピ、中間に玲央そして浅草側に悠、黒ケッピがいた事になる。
11話:
・黒ケッピに取り込まれ自分の存在を消して行く悠は、最後に「4年前のミサンガを投げる自分(3人のつながりを作った原始の存在)」を消すため、押上方面に向け歩かう。
・ED後、森中少年刑務所から出所した悠が橋の中腹から跳び下りると、一稀と燕太が迎えに来て、3人で押上側の練習場へ泳ぎつく。橋を渡り一旦浅草方面へ戻った後、(1話で一稀が通った猫の像を逆走し)押上方面へ向けて走りながら「さらざんまい!」と叫ぶ。


   吾妻橋に於ける登場人物の動きを縦軸と捉えた時、何が見えてくるか。先に自らの見解を述べておくと、吾妻橋の浅草方面は過去(或いは反復脅迫/死への欲動)、押上方面は未来(或いは快感原則/生への欲動)を表象するものではないか。以下、詳細に物語を紐解き、その試論をより明確に提示する。
  「 さらざんまい」は、様々なシーンや台詞が其々に呼応し、対応する物語構造になっているが、此処では、縦軸の関係を最も分かりやすく提示している一稀と悠、それぞれの喪失と救いのシーンに焦点を当てる。

 まず、5話の漏洩時、過去の一稀は、産みの親ではなく、今の家族を選びとる為に、押上方面へ走っていた事になる。つまり、彼は未来を掴む為に橋を渡っていた。しかし、春河は「自分を置いて行ってしまうのではないか」と勘違いし、交通事故に遭ってしまう。この喪失、過去を打ち消そうという心理が働き、1話の一稀は、夢の中で謂わば実際に5話で走っていた方向から逆走し、浅草方面へ向かっているのではないだろうか。そのまま独白と共に映像が進み、吾妻橋近辺から聞こえる春河の「かずちゃん」という叫びが、川縁の柵に沿って走る一稀を足留めさせる。「ア」の標識が1度は遠くに落ち、2度目はカズキを円の中心にしてすり抜ける。この時位置関係を考えれば当然、橋の上にいる春河の方が押上側に近く、一稀は浅草側にいる事になる。
  対する8話の悠は、誓との繋がりを選択し兄と共に街を出る未来の為に押上方面を向いて燕太に電話をかけている。実際のところ、誓と悠が乗り込んだ水上バスの乗り場は、浅草側にある為、悠が押上方面を向いた絵を挿入する必要はない。故に、意図的にこの絵が挿入されていると考えられる。つまり、誓との未来の為に燕太に一稀を託そうとしている様子を電話の内容だけでなく視覚的にも示している。10話、誓の死によって、悠は吾妻橋へ戻り「希望の皿を渡せ」と2人に銃口を向ける。この時の位置関係は、悠が浅草側、一稀と燕太が押上側である。また、希望の象徴であるケッピが2人の側にいるのに対し、悠は自らの背後(つまり、より浅草側)から現れた絶望の象徴たる黒ケッピに呑み込まれてしまう。最終話、黒ケッピに飲み込まれた悠は過去を遡り3人のつながりを作った原始の存在ーー四年前の自分を消そうと試みる。銃弾を放った瞬間、一稀が、過去の悠を守るように立ち塞がり、つながりを守ろうとする。この時の位置関係は、1話の夢の中で浅草側に一稀、押上側に春河がいたのと同様、浅草側に悠、押上側に一稀がいるのである。

  つまり、一稀と悠、前半と後半に於いて物語の主軸を担う2人の喪失と救出の物語構造の類似には、同時に位置関係の相似も認められる。先に示した見解ーーつまり、未来を目指すもの、希望を持つものは押上側におり、過去にとらわれるもの、絶望に取り込まれそうな者は浅草側にいる事が作中の登場人物の位置関係から理解出来るのである。


  以前に「欲望の河」はS.フロイトの『快感原則の彼岸』のイメージではないかという指摘を見かけたが、私も賛同するところであり、上述の推論もそれを基にしている。「さらざんまい」は主人公3人組が中学2年生(14歳程度)である事からしても、またいくつかの演出をとっても、明らかに「新世紀エヴァンゲリオン」を意識している。(例えば6話の一稀の笑顔は明らかに、最終話の碇シンジの笑顔を想起させる)アニメ版エヴァンゲリオン20話「心のかたち 人のかたち」に於いて初号機に取り込まれたシンジをサルベージしようと、ネルフが試みた際「デストルドー反応(死への欲動)」が発生し、救出作戦が失敗する。エヴァンゲリオンの影響を考えるならば、フロイトの快感原則の彼岸を「さらざんまい」の彼岸と此岸に当てはめるのは突飛な発想ではない。
   では、この快感原則とは何か。フロイトが明快に示しているフレーズがある。「心的な生には反復脅迫が存在し、これを快感原則の彼岸にあると断定する」というものだ。つまり、快感原則は、心的な生を支配している。(快感原則を修正するものとして現実原則というものも存在する。快を得ようとする欲動を現実に即したものに修正する精神活動の原理であるが、現時点ではあまり言及する必要はないものと考える。)この心的な生の彼岸にあるとされている反復脅迫は「昔の経験を反復することで、能動的に苦しい状況に身を置く」状態であり、これが「死への欲動」を支えている。この快感原則の彼岸と此岸を隅田川を挟んだ浅草側と押上側に当てはめた時、作中登場人物の心境がより立体的に、明快に見えてくる。
    更に単純化して捉えるなら、浅草にある雷門は伝統的な建築物であり、押上側のスカイツリーは新しい建築物である。ここに、過去と未来というイメージを重ね合わせることは容易い。一稀を例にとれば、製作陣もそのイメージを意識しているであろう事が理解できる。1話と7話において自らのルールを語るシーンで一稀は橋を渡る。両話とも浅草方面へ向かっているが、話の大きな転換点となった6話を越えた7話では1話の演出と大きな差異がある。箱を抱えず、代わりに円(サッカーボール)を持ち、ラッキー自撮り占いに縛られることもない。一稀の行動が過去、或いは贖罪から解放された事を示す重要なシーンである。未来へ向かう姿を補強する様に、1話では、サラの自撮り占いを観ながら「変なの来ませんように……」と一稀が呟く背景には雷門が映り込んでいるのに対し、7話ではサラの「グッドサラーック」の声を聞きながら歩くシーンの後に、スカイツリーのカットが挿入されているのである。
 
  以上ここまで吾妻橋を縦軸として、浅草側=過去、押上側=未来と捉えて来た。これを作品のラストに当てはめてみる。 1話では、一稀が1人で浅草方面へ向かっていたのに対し、最終話では3人で橋を渡り、一旦は浅草に戻った後、再び橋へ、押上方面(未来)へ向けて走る。これは、過去を抱きしめ、それでも未来へ進んでいく、という「さらざんまい」という作品そのものの姿勢を意味しているのではないだろうか。


2.隅田川の持つ機能(横軸)
   本章1.に於いて吾妻橋を縦軸と捉え、其々の岸に意味を付与する事を試みたが、橋が架かっている隅田川自体を横軸と捉えた時、同様の意味を見出せるのではないか。最終話のラストシーン、3人が再びカッパになり、「いざ、未来へーー。」と向かう方向は下流である。つまり、海へ向かう方が未来で、上流が過去だと推測出来る。
   9話で、久慈兄弟は水上バス乗り場から、日の出桟橋へ向かっている。最終話同様下流へ向かっていたことになる。ここには、兄弟2人の未来へ向かう姿勢、ないし可能性が示されていたと言えるだろう。しかし竹芝ふ頭近辺で撃ち合いになり、誓が致命傷を負いながら乗った船は「回送」。2人の未来への可能性が潰え、兄との過去の想い出を想起しながら絶望へと悠の感情が向かう際、船は上流へと戻っていくのである。
   隅田川の流れに意味を付した時、KANABOONの「まっさら」のかかるオープニングも新しい視点で捉え直すことができる。まず、通常のオープニング映像を簡単に纏めると、一稀、燕太、悠の3人がそれぞれ浅草の街を歩いている様子から、一稀が水に落ち、2人の顔が浮かび、息を吐く。玲央と真武が登場し、夜の吾妻橋が映った後、カッパになった3人が水から飛び出して飛行し、吾妻橋を通過する。主要登場人物それぞれの大切な人が映り、夜、カワウソが暴れている様子が描かれる。繋いだ3人の手がカッパに変わり、スカイツリーの周りを円を描きながら飛ぶカットが入った後、登場人物がそれぞれ頭に手を当てる静止画が流れる。3人が夕陽をバックに走り肩を組んで笑いあい、最後にケッピの尻から虹が押上方面に伸びていく。
    本章1.の縦軸を考慮すれば、ケッピの虹も過去と未来を繋ぐ希望の架け橋としての効果を見いだすことが出来る。また、横軸で思考すると、カッパになった一稀達が橋を越えるシーンは、先にスーパードライホールが見える事から下流側(未来)へと進んでいる。更に着目すべきは夕陽の中3人が走っていく方向である。一見すると、1話で一稀が走っていたのと同様、つまり視聴者から見て左側に向けて走っており、上流(過去)へ向かっていると錯覚しそうになる。しかし、ここで彼らの背後に映る柵の形に着目すると、縦になっている浅草側のものではなく、波打った押上側の柵であると解り、このシーンの意味が全く変わってくる。つまり、カメラの固定位置は丁度180度反転し、彼らがラストシーンで「いざ、未来へーー。」と言った方向、つまり下流へ、未来へ向かって駆けている事になるのである。此処にも未来へ進む、という強いメッセージが込められている。

 


3 . 縦軸と横軸が交差する一稀の夢
    1話で夢の中の一稀は吾妻橋を押上方面から浅草側へ渡り川縁に沿って上流へ向け走っていた。上記でも少しこの夢について触れたが、より詳細に位置関係を確認し、どの様な意味作用を持つのかを考えてみたい。本章1.と2.の推論から、一稀は事故に遭った事による後悔や喪失から、過去、そして死の欲動に向けて進んでいると仮定する。途中、春河が追いかけてくるカットが挿入され、吾妻橋の下をすり抜け「カズちゃん」という呼びかけが聞こえてくる。一稀は振り向き、足を止めて戻ろうとする仕草を見せ、そこで1枚目の「ア」の標識が落ちてくる。   
  因みに、「ア」の意味については「愛」又は「I(アイ/私)」と解釈する。1話のアサクササラテレビで縁起熊手からオカメの代わりにサラが顔を出しているシーンがある。その際、彼女の周りに並んだ札には「心からアを信じなさい」「アあっての自分」「アをご自由にご覧ください」「世界の……アを叫…」と書かれている。世界の中心で「ア…」を叫ぶから「ア」は愛であると連想出来る。ただその他の文に「愛」を当てはめた時「アをご自由にご覧ください」だけは上手く嵌らない。そこで、縁起熊手の性質へ立ち戻ってみる。浅草には東京三大酉の市を行う鷲神社があるが、縁起熊手の買い方には独特な風習がある。境内を見て回り、数あるものの中から気に入った熊手を見つけ熊手商と値段交渉し、駆け引きを楽しむのが粋とされているのだ。つまり、実際に現地へ行き、「見て」、売り手とのやりとりを楽しむ所に面白さがある。故に「アイ(私という商品)をご自由にご覧になって下さい」という文脈で捉える事も不可能ではないだろう。ここでは一先ず、この標識については丸い円(つながり)の中にあるもの(愛ないし自分)として捉えておく。
   1度目に標識が落下した場所は、一稀が驚いているシーンの背後に吾妻橋が見える事から、本来足を留めずに進んでいたかもしれない場所ーーつまり、より過去、より深い死への欲動となる。足留めされた場所にもう一度標識がおちてくるが今度はその標識は一稀の身体をすり抜ける。これは、明らかに最終話でカッパになった3人が4年前の一稀にミサンガを渡したシーンと重ねられた演出である。その後のシーンを細分化してみると以下の様になろう。


1話:
①驚いた一稀の真上に「ア」が落ち、すり抜ける→②斜めになったカワウソの太鼓→③男女入り混じったカッパシール(皿の上にハートが載っている)が太鼓の脇に沢山貼り付き、太鼓が先程のカットより引きで映る→④大量の「ア」が穴を擦り抜ける→⑤練習場にいる燕太、コインロッカーにいる悠が映り夢が終わる
11話:
⑴3人が決めポーズをして「さらざんまいのうた」を歌い始める→⑵カワウソが向かい側から概念と書かれた太鼓が3人を襲う。3人は「ア」の標識と共に、穴をすり抜ける→⑶走っているともう一度カワウソが襲ってきて辺りが暗闇に包まれる→⑷玲央と真武が光となり、またそれに続く様に光に変わった「ア」が集まって融合し、光となって闇を照らしてくれる→⑸4年前の一悕にミサンガが届く


   概観すると、①と⑸/②→③と⑶→⑷/④と⑵/⑤と⑴が対照関係として浮かび上がる。②→③(カワウソの太鼓が眼前に現れ吹き飛ぶ)と⑶→⑷(カワウソが襲いかかってきたところに玲央と真武、そして沢山の「ア」が集まり光となって現れ闇を払拭してくれる)といった具合に、シーン毎の巻き戻しが行われているのではないか。
   では、1度目に落ちた「ア」の標識は何を意味するのか。勿論最後の「さらざんまいのうた」の前であればどの時点もあり得る。悠が銃で撃ちミサンガが切れた時でも解釈可能だろう。しかし個人的には、「さらざんまい」という物語が始まらず、春河の足が不自由になり円の外側にはじき出されたと一稀が認識したまま死の欲動にかられ過ごしていたらどうなっていたのかという一つの「可能性」を表していると考える。川縁を走っている最中、挿入される火花の様にパチパチいと円が描かれる演出は最終話、欲望の河を渡る場面でも用いられている。あの円が完成した後に出てくる台詞は「つながりたいけど、まだ諦めない」だ。6話で燕太が一稀にいった様に春河は諦めていなかった。つまり、春河の「つながりたいけど、まだ諦めない」気持ちが声となり、あの場で一稀を踏みとどまらせたのではないか。このかろうじてつなぎとめた春河の気持ちが、さらざんまいという救いの物語の起点になったのではないか。声が届かず、一稀が止まらなければ、一度目の標識はすり抜けず頭上に落ちたかもしれない。死の欲動が成就する、現実的に言うと最早「戻れないところまで」行ってしまい一稀自身が潰れてしまう未来を暗示している様に見える。

 


4.まとめ
   ここまで1章として「縦軸と横軸から読み取るメッセージ」を自分なりに解釈してきた。結果として見えてきたのは考え抜かれ、慎重に扱われた「街」の機能である。幾原監督はかねてより、「街」に惹かれるものがあると発言し、都市論に興味を示していた。故にこれ程まで丁寧な描写がなされたのだと推察する。過去の作品と比較してもここまで都市に拘ったものはない様に思う。何故、今作で都市に意味を持たせ、物語と結びつけて描く事に拘ったのだろうか。
   5話で過去のカワウソ帝国との戦乱の最中ケッピの身体から欲望が割れ、黒ケッピが飛び出ていった建物ーー浅草凌雲閣は関東大震災によって倒壊している他、7話のラッキー自撮り占いでは吾妻サラが夏休みの宿題にナマズの研究をしている旨のテロップが出ており、作中には地震を暗示する場面が散りばめられている。10話でサラが「世界は再び試されようとしています。繋がっているのか、繋がっていないのか……」という言葉や春河の持つ皿(プレート)が割れるシーンから、世界の円を保つ事に失敗すれば、エンディング映像の様に巨大なカワウソが暴れ回り大地震が起きていたかもしれないと推測する事は容易である。
    では、地震と都市はどの様に結びつけられ、語られてきたか。1995年兵庫県南部地震が起きた。これによって引き起こされた災害を政府は「阪神・淡路大震災」と呼称している。(幾原監督は前作「輪るピングドラム」で同年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件をテーマに据えており、時代的関心は高いと思われる。)勿論その後も地震は絶えず各地で起き、また2011年に東日本大地震が起きたからといって1995年の惨禍が上書き消去されるものでもない。しかしながら東日本大地震以前、我々大衆が「大地震だった」と認識していたのは間違いなく兵庫県南部地震ではないか。この地震に実際に遭遇した内田隆三は、超大型の地震は自然から都市の偽装された分離を無化させるものであると論じ、更に近代都市の建設は死者を都市の郊外たる墓地へと排除し、生者の空間へと純化したと述べた。つまり排除し、隠匿した筈の死を、都市の内部に引き入れる力を地震は有している。
   さらざんまいに関するインタビュー記事を読むと、監督自身が度々東日本大地震に触れているのが判る(ダ・ヴィンチやエンタメステーション等)。そこから読み取れるのは、8年経ち、東京五輪改元などのイベントによって震災が風化していく時代の潮流を捉えながら、「新しい事が必ずしも良いとは思わないし、忘れてしまうことがいい事だとは思わない」、つまり「忘れない」ことの大切さを説くと同時に、死を代表とした「見たくないものを見ない姿勢」を疑問視する一貫した態度である。我々は地震によって都市に強制的に表出した「死」に無理矢理蓋をしようとはしていないかーー東日本大地震の犠牲を省みず忘却し進んで行こうとする社会への抵抗として、古さと新しさが混合する街・浅草を舞台に選んだのではないか。そして、過去を忘れないながらも新しさを持つ街を、3人の少年が行き来する事で物語を進め、喪失の痛みを抱えながら未来へ進む姿を描いた。都市とそこに生きる人々を緊密に結びつけて物語化する事で、歴史的な災害が風化していく時代に対する疑念にまで広がりを持たせる試みが「さらざんまい」ではなされている。

(参考文献:ジークムント・フロイト 1996年『自我論集』 筑摩書房大澤真幸 1996年『虚構の時代の果てーオウムと世界最終戦争』筑摩書房内田隆三 1996年「都市の現在」『社会学のすすめ』筑摩書房