さらざんまい(感想文②)

   ※以下の記事は、私が4月から始まったアニメ「さらざんまい」にどハマりした感想文です。ツイッターに書いてたのですが、長すぎてちょっとどうかと思ったのでまとめ直して少し追記しました。(なお、作品名としてのさらざんまいには「」をつけ、技名としてのさらざんまいには“ ”をつけています)また、引用部は斜体にしています。

 

2章 他作品からの影響
  1章で論じた様に、「さらざんまい」は見たくないものを抱えて生きていかなければならない、というメッセージを孕んでいる。この主題に影響を与えたとされる作品を挙げ、その影響について論じる。


1.2つの星の王子様
    最終話で春河がケッピを「星の王子さま」と呼んでいる。通常、星の王子さまと聞いて想起するのはサン=テグジュペリの作品であるが、春河の前に現れた「星の王子さま」が、希望の象徴であるケッピと、絶望を象徴する黒ケッピの2体が融合した状態である事を念頭に置くと、もう1つの作品が見えてくる。寺山修司の戯曲「星の王子様」である。(幾原監督は寺山修司から強い影響を受けている旨を公言している)ケッピと黒ケッピを融合させるのと同様に、この2つの「星の王子さま」を融合させる事が物語のある種の答えとなっていると考える。
   サン=テグジュペリ版の『星の王子様』は有名であるから、今更紹介するまでもないが、寺山の戯曲「星の王子さま」は初期作にあたる。幾原監督自身が実際に天井桟敷を観劇したのは、レミングや奴婢訓といった末期の作品であったらしいが、「星の王子さま」の内容自体は少女革命ウテナに強い影響を与えた「レミング」に通ずる部分も多い。(「レミング」は、初演から数年後に手を加えて再演されている。私が参考にしているのは『新装版 寺山修司幻想劇集』に収録された「レミングー世界の涯てまで連れてってー」であり、これは初演版に手を加え、一部再演版を挿入したものである事は予め述べておく。幾原監督は恐らく再演版を観たのだと考えるが、初演版と再演版の差異について、またどちらに影響を受けているのかについてここでは考慮せず話を進める)
 「レミング」同様、「星の王子さま」は「孤立した個の内部」を取り上げ、そうした内面への退行を拒むプロセスを描いている。「星の王子さま」という題は、当然サン=テグジュペリの『星の王子さま』が意識されており、『星の王子さま』を愛読していた過去の自分に復讐したいと思った事が製作の契機になっているという。
   復讐とは、具体的に何を指すか。戯曲に関する寺山のノートの一部を引用しよう。


「「何百万の星のどれかに咲いているたった一輪の星を眺めているだけでしあわせだ」とサン・テグジュペリ星の王子さまは言っている。だが「見えないものを見る」という哲学が、「見えるものを見ない」ことによって幸福論の緒口をつなごうとしているのだとしたら、私たちは「見てしまった」多くの歴史と、どのようにかかわらなければならないのだろうか?(略)「星の王子さま」を捨ててきた人たち、「見えるものを見てしまった」人たちが、もっとも深く現実実則と、心的な力の葛藤に悩みながら歴史を変えてゆくのである。」(p.289)


   つまり、寺山は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最も有名な台詞である「大切なことは、目に見えないからね」という台詞に縋り、大人になっても現実を見ようとしない人々へ疑問を投げかけ、現実と向き合うべきだと主張している。幾原監督は「見たくないものとも一緒に生きるべき、見続けるべきだ」とインタビューで発言していたが、これは「見えるものを見てしまった」人たちが、現実原則と、心理的葛藤に悩みながら生きる事を賞揚する寺山の姿勢と同義だろう。
   あらすじを簡潔に示すならば、恐怖の老処女ウワバミが経営するホテルに男装した母親と共に少女・点子が訪れ物語が始まる。ホテルに閉じ籠り紙屑を空に浮かぶ星だ、と主張するウワバミの現実を見ようとしない姿を点子が糾弾する。これによって、「お芝居ホテル」は崩れ落ち、点子から点子役の女優となった女が観客に向けて劇場を出た時の現実の空に浮かぶ星を見つめる事の重要性を説き幕は降りる。
   実際に作中の印象的な台詞をいくつか上げ、より深く「さらざんまい」との類似性について考察し、また異なる点についても述べる事とする。


点子:でも、この部屋には窓がないわ。それに今は昼だし
ウワバミ:昼だって星は見える、あたしは「何百万の星のどれかに咲いている、たった一輪の  星を眺めるだけで、しあわせ」なんだもの(p.294-295)


ウワバミ:(強く)見えないものを見るんだ!見えないものだけを見る!
点子:でもそうしたら見えるものが見えなくなる!
ウワバミ:いいじゃないの!そんなもの。今まで見てきたものなんか、みんな捨ててしまえばいいんだ……すると、ほら、見えないものが見えてくる!作りもの……作りもの……でも、作りものは安心よ、決してあたしを傷つけないから(p.335)


点子:いつまでも、いつまでも、大人になれない「星の王子さま!」きたないものを見ないふりをするごまかしの童話!うそでかためたお芝居ホテルのうしろに、ほんものの人生を見せて頂戴!(p.336)


点子:お芝居と同じように、人生にも上手な人、下手な人がいるのよ。(略)星はあるはずです。ほんとの星はあるはずです。たぶん、今夜も見えないかもしれないけれど、紙でも豆電球でもない星があるはずです(p.340)


   ゆめから抜け出せずに星の王子さま いまでも読む子よ 夜空を仰ごう 言葉が死ぬときめざめる世界がある お芝居は終わっても夜空はおわらない(p.342-343)

 


   ウワバミの様に、サン=テグジュペリのいう所の「見えないものを見る」が「見えるものを見ない」という態度に変質してしまい、孤立した内面への退行に向かった大人達の姿は「さらざんまい」の作中に幾度も登場する。玲央と真武に欲望搾取され、倒されるべき敵として立ち塞がるカパゾンビになってしまった人々である。或いは、本来の真武の姿を見ようとせず、「お前は本物の真武じゃない」と切り捨ててしまった玲央も同様だろう。
   この様に、「見えるものを見ない」態度を否定し、現実を見なければならない事を戯曲「星の王子さま」は教えてくれるが、一方で「見えるものを見てしまった」現実をどう受けとめ生きて行くのかという方法は示されていない。「さらざんまい」は、その解答としてサン=テグジュペリの『星の王子さま』を用意しているのではないだろうか。
  5話で一稀は「見えないものに確かさを求めるなんて無理なんだよ」と叫ぶが、これに呼応するように最終話でサラが「形あるものはいつか割れて失われる」と春河に告げている。サン=テグジュペリ版『星の王子さま』の「大切なことは、目に見えないからね」という態度そのものである。一稀、燕太、悠の3人は“さらざんまい”による強制的な秘密開示システムによって「見たくないもの」=現実と向き合わざるを得なくなる。自分のせいで壊れてしまった家族、決して振り向いてくれない同性への想い、自らの犯した罪。しかし、これらの心理的葛藤を受け止めてくれるものは、大切な目に見えないつながりなのだ。

 つまり、2つの「星の王子さま」を融合させることこそ、「見えるものを見てしまった」夕暮れの少年達の生存戦略なのではないか。実際、この2つの「星の王子さま」の融合を示唆するシーンが最終話に存在する。世界の円が丸く保たれた後、春河が現実の夜空を見上げるシーンである。夜空に浮かぶ本物の星々の合間を恐らくは現実のものではないケッピとサラらしき流れ星と、後を追う様に玲央と真武らしき光が流れ「ア」の星座を作る。本物の夜空に浮かぶ、架空の星座。2つの星の王子さまの融合を視覚的に示す美しいカットである。


2.スタンドバイミー
   幾原監督は主人公3人組のイメージソースとして映画「スタンドバイミー」をあげている。意識共有のためにスタッフ内で鑑賞会を行なったと述べていた程であるから本作を「スタンドバイミー」を抜きにして語ることは不可能だろう。この映画の影響を「さらざんまい」の中に見出す事で、夜の意味を捉え、オープニングとエンディング映像の変化について紐解いてみたい。


   「スタンドバイミー」は、男の子4人(ゴーディ、クリス、テディ、バーン)が、「郊外で子供が電車に跳ねられたらしいが、警察は死体を未だ捜索中で見つけられていない」というニュースを聞きつけ、もし発見する事ができればテレビに出られるのではないか、英雄になれるのではないか、という子供らしい功名心から親に各々嘘をつき冒険へ出る青春映画である。田舎町から、赤い鉄橋を渡り、車を使えば然程の時間も掛からない約30キロ先の森の奥へ向けて線路伝いに歩き旅をする。4人組とはいえ物語の骨子となるのは、不良のクリスと、文学少年ゴーディ2人の友情である。
  旅のリーダーはクリスだ。汽車の前に立ち度胸試しをしようとするテディを無理やり線路から引き剥がして助け、或いはゴーディに「君は頭が良い。俺たちとは縁を切って進学コースに進むべきだ。君の文才を親が守らないのなら、俺が守ってやる」と助言する等、彼の非常に誠実かつ聡明で正義感の溢れる性格が道中明らかになっていく。
   やがて日が暮れ、森の中で一夜を明かす事になった4人は、クリスが父の引き出しからくすねてきた拳銃を携帯し交代で見張りに立つ。真夜中、クリスが見張り番をしていると、ゴーディが魘されているのに気がつき、焚き火の世話をしながらその姿を見守ってやる。目を覚ましたゴーディは見張りに戻ろうとしたクリスの隣に座り込み、「悲しいよ クリス、1人で死ぬなんて」と零す。それは、自分たちがこれから見つけ出すはずの死体となった子供に向けてもいるが、何より亡くなった自身の兄に重ね合わせた言葉であった。
   ゴーディは、家庭内で唯一自分の文学的才能を認め、愛してくれていた兄を事故で亡くしている。優秀だった兄は父の誇りだった。それ故、兄の死後、父親からキツくあたられており、家庭内に居場所を見つけられず苦しんでいた。
   この秘密をゴーディが打ち明ける代わりに、クリスもある秘密をゴーディに打ち明ける。彼自身は頭は悪くないものの、家庭環境が悪く、また給食費を盗んだ罰で停学になった事から進学コースに進むのを諦めている。確かに一度給食費を盗んだと彼は告白する。しかしその後、返却していた。にも拘らず、金は出てこない。代わりに教師が新しいスカートを履いている。つまり返した金を教師が横領した、大人に利用されてしまった、というのが真相だった。だが、例え自分が真実を話しても誰も信じはしないだろう。何故なら、兄が町の不良グループの一員で家が貧乏だからだ。「(もう全て諦めている)ただ、誰も自分を知らないところへ行きたい」と旅をここまで率いてきたクリスが涙を零す。ゴーディは静かに寄り添い、肩を抱き寄せ、夜はふけていく。
   その後、旅を続け死体を発見するに至るが、子供の遺体を見たゴーディは再び兄の死を想起し取り乱してしまう。
「何故兄さんは死んだんだ……僕が死ねばよかった、父さんは僕を嫌ってる」
「(父親は)君の事を知らないだけだ」
    2人が寄り添い合っていると、死体の噂を聞きつけ、車で追いかけて来た不良グループが現れる。リーダーのエースとクリスの兄アイボールが「自分たちが一番に発見した、その死体を寄越さないと殺す」とナイフを見せてクリスを脅す。しかし、刺される覚悟で彼は一歩も引こうとしない。緊迫した状況下、ゴーディが立ち上がり、空に向かって銃を放ち「誰にも渡さない」とエースに銃口を向け狙いを定める。
   気圧された不良達が立ち去り、漸く彼等は旅の目的であった死体の発見者になる資格を勝ち取った。しかし、「英雄になるんだろ?」というテディの言葉に「こんなことでは(英雄になっちゃ)だめだ」とゴーディは返し、結局匿名で警察に届出をして帰途に着く。旅を経て戻ってきた街は出発前より小さく見えた。2人きりになったクリスはゴーディに問いかける。「一生この街にいるのかな」「なんだってできるさ」「そうだな、握手を」握手をし、2人はそれぞれの家に戻る。
 (その後、テディやバーンとはあまり遊ばなくなってしまったが)クリスとゴーディは共に進学コースへ進み、ゴーディは作家に、クリスは努力して弁護士になった。幼き日の冒険が2人に生きる力を与え、将来を決定づけたのは言うまでもない。しかし、大人になったクリスは持ち前の正義感によって喧嘩の仲裁に入り皮肉にもナイフで刺され亡くなった。その一報を知ったゴーディが、かつて旅の途中「書く事に困ったら俺たちを書けよ」と励ましてくれたクリスの言葉を思い出し一連の冒険譚を執筆していた、というのが映画のあらましである。そして、庭ではしゃぐ子供の声を聞きながら「12歳の頃の様な友人をその後持たなかった、誰でもそうではないだろうか?」とパソコンに文字を打つ大人になったゴーディの姿で幕はおり、名曲「スタンドバイミー」が流れる。映画の20年以上前に発表されたベン・E・キングによる妻に宛てたラブソングは青春映画のエンディングとして流れると全く違った意味を持つ。「夜がやってきて大地が暗くなるとき 月明かりしか見えなくなる 怖くはない、怖くはないさ ただ君がそばに、君がそばにいてくれたなら」という歌詞は、クリスとゴーディが幼き日、旅の夜に結んだ特別な友情を想起させ、観客の胸をうつのである。


    以上が、スタンドバイミーのあらましだが互いの秘密を打ち明けることで深い友情で結ばれ、夜を越える。そしてその友情と経験が未来を切り拓く力になる、という「さらざんまい」の構成自体が強く本作と結びついているのは言うまでもない。更に映画のシンボルでもある4人が冒険へ出発する際に渡る鉄橋は赤く塗られている。浅草の数ある橋の中から吾妻橋を選択したのは勿論浅草の大通りと対岸を結ぶ街の大動脈を果たしているのが最たる理由であろうが、この映画の冒険の一歩である鉄橋を模している様にも見える。
    最終話「あの頃、ここじゃないどこかへ行きたかった」という3人の共通した独白は、クリスがゴーディに泣きながら漏らした台詞を下敷きにしたものだろう。3人で手を取り合って攻撃するのも、恐らくは旅の終わりに2人が握手をし、友情を確認しあったことと無縁ではない筈だ。また、何より銃を持つ悠が、クリスに似て実は1番冷静で情深い性質を持っており、彼が更生し、人生を生き直す勇気を持ち得るという結末、男の子の友情が、連帯が、その子の将来を救うきっかけになるという救いの物語をthe peggiesの「スタンドバイミー」にのせて描写した場面こそ映画への最大のリスペクトだと言える。
     the peggiesの「スタンドバイミー」が使用された通常のエンディングは、夜の浅草に3人がそれぞれ1人で立ち、最後、夜が明けミサンガを持った一稀の手がクローズアップされた後、朝日によって浮かび上がる人影がアスファルトに伸びる作りになっている。この影の数は変動し7話までは3人だが、8〜9話ーーつまり悠が誓と浅草から離れると2人に、そして10話で燕太が撃たれ生死不明の状態で流れた時は1人になる。
  更に最終回においては、オープニングとエンディングそれぞれ曲がかかる位置と映像が変わる。まず、森中少年刑務所に入った悠の生活がthe peggiesの「スタンドバイミー」にのせて描かれるが、この時、曲の終わりに映るのは夕陽を受けて刑務所内の廊下に伸びる悠1人きりの影である。出所し、街へ戻って3人が再会した後、オープニングに使われていたKANABOONの「まっさら」が流れる。そして、最後3人が1章で見た様に未来(下流)へ向かって走るシーンは夕陽をバックにしたものから青空に背景が変わり、ケッピの尻から虹が出るシーンは朝日を浴びて立つ3人の影に挿し変わっている。
    このエンディング映像の人影の数の変化と最終回に於けるオープニング、エンディング曲それぞれの変更点をどの様に捉えるべきか。
     まず、「さらざんまい」に於ける夜は映画「スタンドバイミー」同様1人で乗り越えるには恐ろしいものである。1話でケッピが尻子玉を抜かれた一稀と悠に向け、夜の浅草を「ここは欲望フィールド、人の世の裏側」と説明し、人間にはカッパの姿は見えない、あなた達は生きていて死んでいる状態にあると説明する。また「夜になるとカパゾンビが出る」という設定も存在する。要するに、夜は(目には見えないけれども)死と絶望によって支配され、欲望を御しきれず現実実測から逸れカパゾンビにされた者達が執着していた欲望を満たそうとする時間帯なのである。そして幾原監督が「3人がカパゾンビに対して言ったことがそのまま自分たちに返ってくる」と述べていたが、一稀や燕太、悠の持つ欲望は、カパゾンビにされてしまった人たちとそう大きく変わるものではない。特に中盤までの一稀の行き過ぎた行動は、もはや明日カパゾンビにされていてもおかしくない様相を呈している。実際、一稀は1話の夢の中では夜の街を走っている。つまり、彼等は限りなく死や絶望が支配する夜に近しい、夕暮れ時の少年なのだ。
   だが物語がはじまり、ケッピと出会い3人で過ごす内、夜は別の意味を持ち始める。彼等は夜になるとカッパに変身してカパゾンビと戦い“さらざんまい”によって身も心も同化する。この強制的なシステムによって、各々の秘密や欲望を共有し、ある時はその行動を諌め、或いは理解を示し絆が深まっていく。最終話、世界の円が丸く保たれた時、夜は明け、朝日に包まれた現実世界の吾妻橋に3人が倒れている姿が映る。夕暮れの少年達が夜を越えた姿を示す様に水溜りに朝日が反射する。ここから現実に、明日へ向かっていく希望が窺える象徴的な場面である。
     最終回以前のエンディング映像は各々が孤独に夜の街に立っていた。物語が始まるまでの状態から、ミサンガというつながりによって集い、つながる様子を描いていたのではないだろうか。最終回では、夕暮れに悠の影が映り、またやって来る夜に彼が1人で耐えなければならない現実を暗示している。しかし、映画「スタンドバイミー」のエンディングの様に「夜がやってきて大地が暗くなるとき 月明かりしか見えなくなる 怖くはない、怖くはないさ ただ君がそばに、君がそばにいてくれたなら」、と目には見えなくとも作中で培った繋がりを手離さず彼は夜を越え、出所の日を迎えたのだろう。そして、親友と再会した彼等3人の心情の変化を示すために、「まっさら」のラスト3人が駆けていく背景は夕暮れから青空に挿し変わったのではないか。彼等は、絶望を、夜を越え、朝日を3人で浴び未来へ向かっていくのだ、という確かな生のメッセージが此処にも込められている。
    余談ではあるが、1995年、TBSで放映された野島伸司脚本の「未成年」というドラマがある。この作品も映画「スタンドバイミー」に強い影響を受けている。(エンディング映像は男5人で線路を歩く、映画を踏襲したものになっている)このドラマの中で、男同士の友情の証として尻を出すというシーンが割に頻出する。果ては、最終回、男仲間5人で裁判を受ける展開になり(腹一杯に食ったら、一緒に少し走ろうぜ 寄り道したってかまわないだろ)という主人公・ヒロのモノローグの後、「それでは、皆さんの久々の再会を祝って、せーの!かんぱーい!」と全員が尻を出して物語が終わる。「未成年」は本質的には、能力で人を判断する社会に対し「自分たちは車やテレビじゃない」と反抗する若者の話だが、モチーフとして70年代の学生運動を織り交ぜており、野島は、幾原監督とほぼ同年代である。可能性に過ぎないが尻を出すというある種突飛な発想はこのドラマから来ているのかもしれない。


3.まとめ
   S.フロイトは幻覚的な方法で、快を得ようとするが、これは失敗に終わり、快感原則を現実にそぐわせる為に現実実測が二次的に発生すると考えた。しかし、快感原則は現実実測の発生によって消滅するのではなく無意識に於いては快感原則が支配していると定義している。人は心の奥底では、欲望に突き動かされながらも、或いは絶望し死への欲動に走ろうとも現実を見、生きなければならない。その調整機能として他人と手を取り合う事が如何に重要か、そして手を取り合うにはどうすれば良いかの答えが本作には用意されていた。
   さらざんまいは寺山修司の戯曲「星の王子さま」と映画「スタンドバイミー」に恐らく幾許かのインスピレーションを受けているだろう。しかし、当然ながら作品そのものをただ踏襲しているのではない。寺山の戯曲は問題提起をするだけで「見てしまった」多くの歴史との関わり方まで書かれてはいないからだ。サン=テグジュペリの「星の王子さま」と寺山の「星の王子さま」を融合させ、現実を生きる為にこそ見えない繋がりを重視するのは幾原監督自身が出した寺山戯曲に対する解答でもある。そしてその答えを実践的なものに落とし込む、つながりをどう生み出すのかのヒントとして映画「スタンドバイミー」が用いられたと考えられる。
 

(参考文献:ジークムント・フロイト 1996年『自我論集』筑摩書房寺山修司 1976年『毛皮のマリー角川書店寺山修司  2017年『平凡社ライブラリー856 新装版寺山修司幻想劇集』平凡社